2007年03月
三年程前から、手編み物の教室も開いています。
この間もベストの『製図作って・・・・。』と来られました。
ゲージを取り、デザイン画を書き、寸法を測って、割り出します。
Kさんは昔からの方法での編み方で、前と後見頃・前立ては別に編む・・・・と云われるのですが、
ぐるりと編む方が簡単です・・・・よ。
前立て分を加えグルリと脇迄が大変時間が掛かりますが、脇まで来ると半分出来たも同然、後は早いです。
一寸特殊な作り目ですが、仕上げもこの段階で済ませます。
脇近く迄編み進み、その間にボタン穴も等間隔に開けながら、一寸気持ちを集中させて、でも頭の運動には丁度良い、ボケ防止です。
脇の手前でそでぐりの辺りの伏せ目減し目をします。そして後見頃を肩迄編み進みます。
前見頃は衿下がり迄、その後肩巾の目数を決め、減らし目しながら、肩まで行けば、後ろ見頃と中表に合わせかぶせ接ぎします。
両方出来たら、衿を編みます。
ポケットを付けたり、細い糸の場合はポケット穴をぼたんの通り易い様に、整えたり、裏糸の始末をして、アイロン掛けです・・・・
見頃を中表にして、濡れタオルを置き、熱いアイロンで素早く、形を整えます。
そして、ボタン付けで完成です。
編み物は正式には習った事はありません。
今の編み方は本を見たり自分で創作したりの我流です。
少しづつはポイントを例えば特殊な目の作り方は以前住んでいた隣人に教わりました。これはとても大切でした。。。。
娘が幼稚園の頃、同級生のお母さんに何人かで、セーターの編み方を二・三回教わりました。
後は洋服の時の採寸の仕方や袖のつけ方、身体のラインに沿った減らし目、増やし目等もどうすれば、綺麗な線が出るのかと試行錯誤しながら、工夫しています。
そしてマダマダ進化して行きたいと思っています。
それでもかれこれ編み物を始めて26年程になりました。
長くやっていたのは、和裁です。実質30年・通算35年程。
三年間の専門学校では、縫い方は浴衣から花嫁衣裳、袴まで、そして歴史やデザイン画、
神戸から教えに来て下さるデザイン画の先生に
『熱心だから神戸迄、習いにおいで!!!』と云われました。
今思うと習って於けば良かったのに・・・とも思いますが、
当時の和裁の専門学校の月謝が5000円程と教材資料に2000円程通学定期と残りお小遣いとで一万円。
サラリーマンの月給が未だ2・3万位の頃。
家では台所仕事をする・・・と言う条件で、全て家から出して貰っていた時です。
材料は着物好きの母がセッセと提供してくれますし、自分の婚礼着物一式を縫いました。
それでも足りない時は親戚の物を、又学校からはいくらでも仕立て物は提供されます。
最初に学校から提供された浴衣の縫い賃が240〜270円でした。その内糸代が140円残りが利益・・・でも幾らか戴いた時は嬉しくて・・・友人と梅田の喫茶店で、パフェ等を食べに行きました。
でも私がもっと興味があったのは、先生の助手で出掛ける、ファッションショウの着付けのお手伝いや、雑誌『きもの』等の撮影の為の着付け助手です。
モデルさんも色んな方がいて、着物の着方のそして歩き方の素適な人、へァーは未だ珍しかった男性美容師(梅田駅近くの美容院)の先生があやつる柘植の櫛先、クルリとシックにまとめられる、魔法の様な手・・・
私も先生の助手として、どうしたら、素早い着付けが出来るかと、足袋の履き口を返しておいたり、仮紐をどの位置におけばいいか・・等、楽しい工夫をしました。
着付け時間は5分から10分で又舞台にも戻って行かれます。
初等科・中等科・高等科・教生科へと、最初はほんのお稽古事の積りでしたが、中等科のI 先生になってからが面白くなり、思わぬ師範に迄進みました。
最初100人位入学した人達も最後には私ともうお一人との2人だけ、本校の生徒さん達と卒業式・・・その時頂いた学院長賞の副賞のハサミやへら台は今も大切に使っています。
その後、芦屋で和裁の教師を少しの間していました。
生徒さんは私と余り年の変わらない方達で、授業も工夫し又、色んな悩み事や結婚の相談等も受け楽しい日々でした。今も時たまお電話する事もあります。
それもこれも、もう40年も前の事です。
覚えて居る内に書き留めて於かないとと思います。。
でも本当は洋服のデザイナーになりたかったのですが。。。
洋裁学校にも通いました。でも父の言葉
女は・・・嫁して・・・・にそれでもとは云えない時でした。時代でした。
今編み物で好きなデザインを考案しています。。。
まさかこんな日が来るとは、あの20代の頃には想像もつかなかった事です。
昨日はいい天気でした。三岳の歯医者さんの治療を終えて、木曽福島へ向かいました。
御岳山・乗鞍・木曽駒ケ岳が頂上付近には何処とも雪を冠り、山肌が青く。とても綺麗です。
『日義道の駅』へは昨年11月からポストカードの整理もせず、補充にも行けず、やっと本日、100枚程印刷したものを持って出掛けました。
店長さんや事務の方とも何だか懐かしくお話も弾みました。
二月の権兵衛トンネル一周年記念は賑やかだったけれど、スキー客は全然立ち寄らないし、まあぁこれからだね。。。。
でもゴールデンウイークには忙しくなりそう・・・・・・・。
ポストカードの棚も綺麗に絵葉書が並んでいて、何方かが気を付けて下さっていたからでしょう。。。。
バーコードを付けて整理して来ました。
テーブルの前にコーヒーのカップを持って座られた方、絵葉書を眺めて居られたので、春の高原にはこんな花が咲きますヨ。。。と見て頂いたり。
お母さんと娘さん・お孫さんと三人連れ、何か思案顔の方には、声掛けてみました。
「どうされたのですか?」
『飯田へ帰るんだけど、R19清内路峠廻りと権兵衛トンネルで伊那から帰るのとどちらがいいでしょう?』
権兵衛トンネルを越えると伊那へは直ぐですが飯田迄は結構距離も在り、
今R19トラックも少なくて南木曽迄、早く行ければ、清内路峠は高低差もありますが・・・・。(結局)どちらも同じ位かも知れません。。。
その後知り合いの方と出逢い、又所用を済ませ、木曽福島から戻りました。
途中の道も道路整備が進みもう少しでR361二車線が全て完成しそうです。
今から18年前引越して早々にこの工事が始まりました。
山林高校辺りの道路工事が最初でした。福島から黒川への集落の中の道がやがて、広い迂回路になり、又一方では木曽福島スキー場下辺りの三車線工事。
そして、一番長い期間掛かっていたのは黒川のやまめ荘迄の長い工事、家の移動や、未だ固まり切らないコールタールが車に跳ねて黒く汚れ、洗っても取れない位でした。
でも珠には集落の中、曲がりくねった道に出逢う道祖神や珍しい草花そんな体験しに行きたくなります。。。。
トックリのセーターでは厚過ぎて、薄いセーターに替えました。
木曽福島では紅梅白梅が咲き、ふきのとうも出ていました。
開田でも温かい柳又はそろそろ・・・・・と道を下り、西野川へと畑や田圃は枯れ草のままですが、何時ものあの場所へ行って見ました。
枯れ草の間に所々黄緑色に見えている、近寄って行くとありました。
早く出たふきの花は霜に当ったのか、少し黒ずみもう少し前から咲いていた事を知りました。
お昼に早速蕗の天婦羅にして、出しました。
春の香りです、少しほろ苦く、でも淡いいい感じ・・・・、栽培うどの芽やナスビと共に、杜子春も満足気でした。
残りは蕗味噌に又お味噌汁の具にして、頂こうと思います。
今朝の気温2度、室内12度。曇り
昨日は観光案内の勉強会。
まちづくり木曽福島(株)まちの案内人の会、ベテランのMさんが少しでも皆さんが案内人として早く一人前に活動出来ますように・・・と
講師をかって出て下さいました。
広小路プラザに集合した11名。
先ず役場前角間薬局の土蔵辺りが本陣跡、この前真っ直ぐ大手橋その先に見える代官屋敷、そして、八十二銀行の通り左が京・・・右が江戸方面です。
左真っ直ぐ先を見ると福島関所。
これが、江戸時代庶民がお侍や大名が通った中仙道です。
道を進み周りの山々と街道の様子を何度も何度も確かめながら、ここで、お客様に福島の街の様子を見て頂きそして感じて頂き、ながらと細かいご指導を受けました。
やがて上の段坂又の名をカモイ阪を登ると西門、塀の高さや釘一本使用せずに再現されたの等の苦労の痕。東門・江戸へと向かう坂が池井坂。
片側は切り立って見える山の間にも逃げ人を逃さぬ柵があり、この峰は3000m級の山へと続く絶対に逃げられぬ堅固な関所。
中仙道の道巾は以前は三間ありました。
現在関所下の道センターライン辺りまで。その前は木曽川へと落ちる道は江戸で非常事態の折にもこの関所で、必ず食い止める事が出来ました。
木曽の代官は山村家。一つの家で270年間守り通した事は大変珍しい事で、幕府からも一目置かれていた。
敷地跡が福島関所の場所です。今の建物は九戸のお関番所の役宅がならんでいた場所に建てられました。
昭和54年、国の史跡に指定された。
ここでは出女、入り鉄砲の取り締まりが厳しかった事。
前の歌碑には、アララギ派 太田水穂
”山蒼く
暮れて夜霧に 灯をともす
木曽福島は 谷底の町”
福島を谷底と詠ったこれは・・・・Mさんはこの詩は何処で詠まれたのかも、調べて居られ、関所の前木曽川対岸は代官屋敷があり、その未だ左上方、のあの家です。
以前は氷餅を作っておられたお宅・・・・
昔はあそこに一軒だけ町の監視をしていた所です。
案内して下さる人それぞれに、いろんなお話を伺う事が出来ました。
関が原の合戦の後(1600年)、木曽代官の山村良勝により建立された、この鐘楼門は安永七年(1778年)9月に建てられた、町に現存する木造建築物としては最も古い物の一つ、寺内には武田信玄の三女真理姫様の供養塔があります。
そしてナマコ壁の土蔵が並ぶステキな石畳の細い道『寺門前小路』水場に出会う通りは中山道です。
此処からの眺めは江戸時代さながら、山となだらかな勾配と大火にも焼け残った、町並み・・・・・お昼も少し過ぎ、民家をイタリアンレストランに少し改造されたビストロ松島亭にて、昼食としました。
松島亭を出て、懐かしい赤い丸型ポストは福島町に5つ残してもらいました。一つづつには名前があり、これは、一般公募で決まった『せいめいさん』と名づけられました。
ゆっくりと散策しながらMさんの案内は引きも切らずに続きます。
上の段『巾の小路』は崖上の巾の狭い道その中でも石積の家は代官所勤務のお屋敷がありました。
『西の小路』から右へは『馬宿の小路』馬と人足が20人と二十頭、馬の手配をする場所があった所ですと・・・、
小路寄りの家は今は公民館になっていて、街灯にも木曽馬の絵柄がありました。
少し下がり『高札場』は今の三倍はあり、幕府からのおふれ等が達筆で書かれており、庶民は字が読めず、組頭等が日を決めて、読みあげ伝えたとの事でした。
道下には福寿草が咲き、紅梅白梅の香もして、上の段は日当たりの良い所。
中仙道の『横宿』、七笑酒造の前を通り、いわや旅館の前に出てきました。
ここから左は岩盤で道が無かったのです。
いわやさんの横の道から木曽川に出て左に曲がると7軒町そして行人橋に出ます。
今は足湯のある所との案内頂きました。
この岩盤の地が木曽川沿いの崖家造りその侭家も七軒なんですね。
いわや旅館を道は右に取り、元の場所へ、木曽福島役場(現支所)広小路プラザへと戻りました。
時間も三時半を過ぎていました。
長い時間思いのこもった、説明を頂きました。
大方の皆さんは木曽福島に生まれ育ち、それでも尚勉強されて居られ、私と言えば、最近とみに入り難い頭にそれでも少しはかじった自分の記憶に重ね乍、何とか覚えんと質問等して・・・・
あせっても仕方がない・・・・。
そんなに簡単に覚えられもしない・・・・。
又誰かさんと同じ道を辿りながら、そして少し案内もしながら少しづつ覚える事に致しましょう・・・・
誰かさ〜んご一緒しません?
早朝やけに水量が増したのかゴロンゴロンと石が流れる音がしましたが、それも7時頃には修まり、シトシトと雨が降っています。
丁度食事中グラッ・・・として、これは少し続きそうで、直ぐに灯油ストーブの火を消しました。そして横揺れ、少し身体も左右に揺れるほどでした。
9時42分NHKで石川県能登での地震だとの事でした。
友人洋子さんはどうしているんだろう・・富山へ電話を入れましたが、この辺り今電話が混み合っていて繋がらないとの事で電話を切りました。
昨日も薪ストーブの燃えが悪く煙突の継ぎ目から煙が出て来るので、今朝は煙突掃除をしました。
下から掃除用に鉄タワシ?で突っつきますが、かすかに空いた穴・・・・回りはカチカチに固まって落ちて来ません。
一時雨が上がり、杜子春は屋根に登り、旗建棒と鉄タワシで、こつんこつん・・とガラガラッと気持ち良くタールの塊が落ちて来ました。
下から見上げると杜子春の顔が見えました。何時までも見ている!!
最近知りましたが、この煙突は鉄にガラスコーティングしてあるとの事で、大家さんが置いて行った下さったものなのですが、
『今は探してもなかなか無いよ!!』っとその時教えて下さったTさん
コンコンと叩いてたりした事もありましたが、大事に使わせて貰わなければとマジマジと見つめました。
朝は曇り空も次第に風が強くなり、昼頃から雨に変わり、わずかだった雨もシトシトと本降りになりました。
バタンと縁先に置いたパラソルが重い鉄の台毎倒れました。
昨夜の酔いが朝まで残って、杜子春は二日酔い・・・・。
朝8時ごろ、コンコンとキツツキの呼び鈴を叩く音がして、・・・・・エリーちゃんとSさんでした。
軽い朝食とを交えて縁側で長〜〜い歓談。
昨日は久方ぶりにいらっしゃった、別荘Sさん宅へお邪魔し、杜子春も打てば響く話が出来て・・・・・。と心が満たされた感じでした。
その時Sさんから又ステキな装丁のご本をお預かりしました。
岡部伊都子さんは私が十代の多感な頃、『古都ひとり』のご本に出遭ってより、『美の巡礼』・『美の恨み』・『観光バスの行かない・・・古寺』等々出版を待ちわびて読みふけり、女性の生き方、考え方のある時はバイブルにもなった方でした。
今回の薄紫とも桃色よりも落ち着いた果実を思わせる色の表紙は
『伊都子の食卓』と云う題
少し開いて読みはじめました。
人は口福に素直である。
食を口福とは正にその通り・・・・。
ピロシキの話の展開が昔の人との別れの複雑な胸の内に繋がります。
私は以前に読んだ作者の経験・記憶をたくし寄せながら・・・・・・・。
この本に自分自身の若き日の想い出と重ねつつ、興味も高まります。
其れまでにも沢山の本や漫画本もお借りしていますのに、ちっとも読めなくて、
済みません・・・
でもこの本は編み物の手を止めてでも早く読みたい・・・と思うのです。。。
以前Tさんが届けて下さった、仁部治美さんのご本開田高原の以前は山野草の群生地が至る所にあったと書かれているその本が大好きで、何方かにお貸しして、そしてトウトウ戻って来ません。
大切な本はその中に人が居て、情景が見え、心が躍るのです。
昨日、新地蔵トンネルの前後では小雪が降っていました。
木曽町役場の会議室が少し増設されたようで、第一会儀室は真新しい白い壁と少し低めの座り易い椅子。
でも隣での会議の声も聞こえて来て、普請にお金を掛けていない財政を考えての事かなぁ・・・・等とも思いました。
今回の総合計画審議会は従前4町村の地域協議会からの発表がありました。皆さん、間際まで討議され計画された様子、苦心が見えるようです。
会議の後、Oさんが『一寸二階に寄って・・・』
初めて木曽町役場内お仕事をされて居られる所へお邪魔しました。
見知った方がそこここにいらっしゃり、明るい雰囲気でした。
Oさんは今年目出度く信州大学・大学院を卒業されました。
経済・社会政策科学研究科の 卒業証書を見せて頂きました。
卒業論文には地域で活動・活躍されて居られる方達をインタビューされ、資料を集められ、相当量になりました。と
開田村を愛し日本中に広めんと努力されて居られる方です。
これからのご活躍も楽しみにしています。
今朝の気温3度、室内6度。
昨日の天気予報では今日は曇り、午後から、雨・もしくは雪・・・・
今の所晴れ・・・
朝早くから、『未だ雨戸開けてませんね』
別荘のYさん男性三人さん、支所からバスに乗るんだけど少し時間があるので、お客様をお連れして一寸寄ってみました。
お一人はあずき亭の隅々までデジカメでパチパチと・・・
『これは幾ら見ても飽きないねぇ・・・』
急遽絨毯に電気を要れ、ストーブに火を付け、
開け放した縁側から枯れ木の庭や渓流を眺めながらしばしの時間を過されました。
今日午後から木曽町総合計画審議会の会議です。
昨日は溜まっていたブログ昨年7月から今迄の分を印刷しました。
今ライブドア・ブログに何やら故障が相次ぎ、消えてしまっては大変なので、3時間程かかりましたが、一方でコートの片袖編み乍ら・・・・保存しておけばもしやの時はそれを見ながら書き換えも出来る・・・・どちらも完了しました。
あのホリエモンさんの裁判に関連してかも知れない、株の値下がりや抱いた夢を壊された方達等の気持ちを思うと・・・・・。
今朝の気温2度になったり3度になったり、室内14度。
太陽は見えません が薄曇りの隙間から陽が射しています。
昨日の御岳山は素晴らしかった、急ぐ車の中から真っ白に冠雪し、裾野が濃紺に聳え立つ御岳山を横目に福島へと急ぎました。
まちの案内人の定例会議は
先日来の視察旅行の感想を一人づつ発表しました。
他の関所や保存地区を視察して、感じる、木曽福島宿の真価を、又これからの取り組み等活発な発言がありました。
やはりマヤカシは絶対に駄目。何時かは飽きられる。とT先生のお言葉が締めとなりました。
次回は4月17日
その後思わぬ案内をしていただきました。
元ガイドさんであり、観光案内の超ベテランのMさんに
「以前から聞いていたカタクリの群生地の場所どの辺りです?」
「あのバイオリンの陳昌鉉さんと若き田中勝巳町長さんが一緒にバイトした、採石所や焼き肉を食べた思い出の場所・・・・」
『これから行きましょか!!!!カタクリの群生地や良い所へ・・・・』
5人乗り合い、昔の中仙道を事細かに案内して頂き、そして、あの鳥居は三岳道八久保峠からクリーンセンターへ抜けます。と王滝道への分岐点・・・そして細い道を下ると、
ボッコ山・・・・
昔神様が富士山と御岳山を比べると一寸低い御岳山・・・
神様はもっと高くしようと・・・御岳山に土を盛りました。
肩に担いだ土の荷をヒョイと御岳山に盛り上げて、セッセと運びました。
夢中での作業にやがて空が白け始め・・・・見られてはイケナイと最後の一ボッコを残して・・・・・お隠れになりました。
小さな小山が民家の真ん中にポコンと取り残されたのが、ボッコ山。。。
小さな山肌一面にカタクリの花が群生するそうです。
この道が舗装される前はこの道にも一面のカタクリの花でした。
ボッコ山をグルリと廻り、そこに素晴らしい桜は御室の枝垂れ桜。
木曽の原風景の表紙になっている、有名な桜の大木です。
又その辺りにも渓流の景勝地が、あり、向こう岸には、木曽義仲から16代目木曽○○公があの丹精な松の木の根元に葬られて居られる、
直ぐ近く本当は日義に戻りたかったのだが、ボッコ山の白鳥神社この地内に不浄な物を通す訳には行かない・・・・と止む無くあそこに葬られてとの事でした。
そして、あの道が中仙道・・・・
R19号で寸断されてしまったあの道を中仙道の続きは今は使用されなくなった旧の中央道・石づくりの素晴らしいトンネルをくぐると元橋に出ます・・・・・。
あの阪の上の夕日が又素晴らしい島崎藤村の小説の中、代官屋敷で叱れて帰り道にふと見えたあの夕日・・・・
そしてあれがのろし台・・・・
私も一言・・・開田の西野峠から幾つかの山々を経て木曽福島のあののろしに繋がって来たんですね・・・・・
素晴らしい観光案内でした。
わくわくしました、カタクリや桜の花は多分4月の半ば位に咲くそうです。
今度は皆でもう一度散策したい・・・・ですね。
マダマダあります木曽福島の素晴らしい処・・・・。
Mさんのお顔も眼もキラキラと輝いて見えました。
今朝の気温4度、室内19度。
風が冷たいがいい天気です。
部屋の中はストーブの調子が良く快適です。
昨日は『忘れな草を守る会』
今年の作業予定や今後の方向等を参加出来る方達と話し合いました。
参加者は7名
・ 開田小学校・水車小屋付近の整備に関しては開田小学校の校長先生方が整備三年計画を考えて居られるとの事で、その内容をお聞きして・・・・・、
ただ今の校長先生が3月で赴任されるとの事、新しい先生方のご意向をお伺いしなければ、これは、少し時間が掛かりそうです。
・ 最初は山野草や開田の自然保護を願う気持ちから会を立ち上げました。
先ず整備し易い又、素晴らしいかった、あの水車小屋付近の忘れな草の群生を蘇らせたい・・・。の思いで始まった整備作業の名前が『忘れな草を守る会』とついた事から、
あとから参加された方には、忘れな草・・・を重きに置くというご意見もありましたが、開田の景観や自然保護の気持ちに立ち返り、今出来る場所整備方法を進めて行くのが賢明かと思われます。
・ 以前より自由に使って下さいと提供して下さっている、柳又原の山野草地を少しづつ充実して行く、それに加え、他の地等も検討して行く。
・ 今まで山野草を観察してきましたが、できればそれを地図に作成したい。
・ 従来の散策コース以外に1・2時間で回れるコース等も整備出来たらいいなあ・・・
・ 末川の蛍の生息地、カワニナの育成等も勉強しながら進めたい・・・。
その他のご意見では、
開田高原が折角『日本一美しい村』に選ばれたのならば
・ 開田の建造物に統一感が無い、新しい家が建ち、耐用年数にしても、木の家がいいのではないか・・・。
Kさんは木を育て、それを熱源にして快適で、又省エネにこだわって居られる貴重なご意見をお伺いしました。
(家の回りに張り巡らしている水道管とその凍結防止に掛かる電気代を効率的な水周りの家でゼロに出来る)
・ R361号沿いだけでも、自然に溶け込んだ、建物や木の素材にこだわって下されば・・・・。
・ 又、それぞれの思いで、建てられた家ならば特に屋根は茶色にこだわらなくても・・・・・。造られた美は飽きて来る。
それは住む人の色んな思いであり・・・・・・・。
末川郷土館横の森林鉄道の車両は皆様から寄せられましたご意見に依り、開田で保存される事になりました。
錆びを取り、特殊なペンキ塗り等の作業
教育事務所では皆様のお力も借りながら進められる事と思います。
NPO緑の挑戦者・木曽へ
名古屋の愛知用水・水の恩恵を受けて居られる方達。。その起源は木曽と知り。何か出来る事は。。。。。と4年程前から年に二度森林間伐作業にボランティアで来て居られます。
木曽学講座でそのお話を伺い、木曽に住む私達に出来る事は。。。。
今度の作業日が4月21日です。
未だ忘れな草の整備作業にも取り掛かれない時ですので、
私達も参加させて頂こうと思います。作業の後、皆様に景色のよい場所や、山野草の群生地を案内し、お疲れを癒して頂ければと思います。
詳細は又追ってご連絡致します。
今回は小人数の為、多くの皆様のご意見をお伺いしながら今後も進めて行きたいと思っています。
今朝の気温2度、少ししてマイナス1度、室内8度。
丁度洗濯物を干そうとした時、陽光にキラキラと光るのは、雪です。
干したジーパンがバリッと固まってしまいました。それでも好い天気なので、次々に畑との堺の手すりに干して行きました。
畑では、踊り子草やマツムシ草の葉が土の間で少しづつ大きくなって行きます。
(今年も100株程出て来ると思われます。マツムシ草の苗をご入用の方は無料頒布。その時期には又お知らせ致します。
沢山の方が貰って下さり、花は増えていく事を願い乍。)
昨日のNHK『週間子供ニュース』は判り易い解説・・・になるべく見る様にしています。
その中で今IT関連業種の人手不足の話。息子もプログラマーなので、興味があり、見ていました。
今東京でインド人が増えています。インドは貧困で文字が読めない人、学校に行っていない子供達も沢山いて、今から7年前に子供の就学に力を入れているとの内容。
小学校の生徒さん達が写り、九・九の掛け算を19まで空で言える・・・、99迄覚えている子供も居るとの事でした。(九九は幼稚園生から教えているとの事)
99×99はと電卓で出してみたら9801。
そして小学校からパソコンを勉強しているそうで・・・・。
日本ではIT関連への人材不足で、インド人が8000人?程働いて居られ、給料がいいので家族を呼び寄せ、マンション暮らし、その子供達は将来弁護士や科学者になりたい・・・・。と大きな眼をキラキラとしっかりした口調でした。
そして日本人はと云うと今数学・科学が苦手な子供達が多くて、就業人数は2000人と日本人の方が少ないとの事でした。
今息子は寝る時間も無い程忙しいらしく、でもこの子の小さい時は数学にもそして国語には全然興味がありませんでした。
最初の子供にはどうしても祖父母や親戚の人達が玩具を与え、溢れる人形・玩具を大切にはして来ない・・・。
次に生まれた息子には、年に一度か二度、好きな玩具を選ばせる事にして、余計な物を与え無かった。
その影響か家中の引き出しの中を捜索し、動く物・時計や、使っていない電気製品を引っ張り出し、分解しては遊んでいた。
小学校一年生の時、使えないソケットを分解し、1時間程で修理した時には私も驚きました。
雑誌に出ていたロボットを欲しがったのが小学校二年生の時、3万5千円程の高価な物で支払いはローンにして、お小遣いの全てとお年玉等で支払わせる事にしました。未だ実力も伴わないハンダ付け等、苦戦しましたが、完成には至らず・・・・。
そして開田に引越した小学校4年生の時、高山の和尚さんから、古いパソコンを貰い受け、本人にはこれは借り物だから大切に使うように。。。。
そして、パソコンの本を読み漁り、ドンドンと実力をつけて行きました。
この息子は電気の事には関心があるけれど、長女とは違いお稽古事には全然興味が無く、そして国語の基本のあいうえお・・・も覚えてい無い、
小学校に入って初めて習うあ・い・う・え・おに、参観に出掛ける私も見ては要られない程の国語の遅れがありました。
でもいつも真剣に取り組み、親の言うことにはいとおしくなる位素直なこの子がただ元気にそこに要るだけで、いい。。。。。と思っていました。
やがてアルバイトをして、次のパソコン4・5万のを購入し、そして高校生の時には、12万円位のを購入。高校は蘇南高校で、好きな電気の勉強とITは自分でソフトを開発する位になりました。 (昨日は誕生日おめでとう・・・)
今三歳の孫(娘の子)を見ていると、その探究心の旺盛な事、
『絵本を読んで!!!』
と云われ、抑揚を付けて面白く読んであげましたが、時々突っ込みが入る、
一次一句を覚えて居て一文字の違いも指摘される・・・・。
こんな柔らかい脳に小さい頃から、99でも覚えていれば、小学校で苦労する事も無いだろうなああぁ・・と
少し冷たい風が気に為る物の爽やかな朝です。
今日も洗濯日和です。
空の上、姿は見えないけれど、チッチッチッと鳥の声がしきりに聞こえます。
今年の暖房は薪だけで・・・・、薪ストーブの温かさは部屋全体を柔らかくホンワリと包み込むようです。
と思いましたが寒〜い日は灯油ストーブも椅子の直ぐ側に置いて手編みする手を温めながら、暖を執っていました。
薪集めが遅かった為乾きも悪く、薪が足りないかも知れないと杜子春は工房のコンクリートの部屋でなるべく薪を燃やさないように努力していました。
決めた事は断固として譲らない・・・。
でもそれで風邪でも引いたら大変・・・・。
その代わり家のストーブは薪を絶やさない様に・・・・
暖かい部屋に帰ってくると、それは美味しいご馳走位にホワッと何もかも緩んで下の方もそれは緩みっぱなしです。 プップッブー・・・
家具の製作段階で出て来る木っ端も時々持ち帰ります・・・・。
大きなコッパは先日浜松の新居宿の見学で見た小松楼の箱枕(角まくら)そっくり・・・。
こんな木を男性は枕に使っていたんだと・・・
女性は高島田?なので、こんな粋な枕を使っていた様です。
その木端もストーブに掘おり込んでくれました。
そのな薪の方も先が見えた感じで、この頃は気持ちが楽になりました。
今朝の気温1度、室内8度。
今日も気持ちの良い朝です。。。
お隣から昨年の秋に土の中に埋めて置いた大根を掘り出したので・・・とお婆ちゃんが二本持って来て下さり、
一本は銀杏に切り、もう一本は1cmの薄切りにして籠の上で干していました。
大分乾き、でも「もう一日干してみょうぅうと」思ったのが運の突き・・・・・。
突然の突風に籠は畑に飛び、カラカラに乾いた多分美味しそうな大根干しはバラバラに畑に飛び散ってしまいました。 あぁぁあぁっ・・・・。
お菓子の箱の中に入っていた紙風船、毎朝杜子春はフーフーズーズーと最初は鼻を咬んでいるのかと思ったのですが、紙フーセンを膨らましています。
別に遊ぶ様子でも無く・・・・・・。
昨夕一寸紙風船をポンポンと突いて見ました。
何回続くだろうか・・・・・。
100回位の積もりでしたが、
ポンポンと突いて行くとマダマダ続きます。。。。
200・・・300・・・400 と右手が疲れて来て、405回で椅子の上に落ちました。 と言うか疲れて落しました。
最近足も衰え、物覚えも衰え。。。何もかも。。。。。。
が以外に続いて自分でもびっくりです。
夜杜子春に聞いてみました、
「紙風船、何回続いたと、おもうぅう!」
『100回・・・・・』
曇り空の寒〜い朝です。
SNS『木曽は好き』には少しづつ参加者が増えています。ニックネームなので、あの人かな???。と想像しながら書き込みを楽しみに見せてもらっています。
又あるページでは、鹿肉の燻製を作り過ぎて貰って下さい!!!。
等楽しいけれど、編み物がおろそかになり勝ちで・・・・困っています。
今日は午後7時から開田高原母子健康センターで、
『開田高原の山野草と蝶のはなし』
講師は 『山野草の話』 楯 誠治 先生
『蝶の話』 田下 昌志先生 が開催されます。
『忘れな草を守る会』
今年の作業についての準備会を3月19日午後7時より
あずき亭で行います。
参加出来る方は宜しくお願い致します。
先日木曽福島の広小路プラザで説明会があり、参加してきました。
(株)まちづくり木曽福島が
情報コミュニケーション&くちこみ発進の為の
SNS『木曽が好き』と云うサイトを立ち上げ、参加者を募っています。
これは木曽福島商工会・商業部会が主催する無料サイトです。
新規登録にはパソコン携帯電話からも登録出来、
その中で御自分のページを作成する事が出来ます。
(又情報を得る為だけに使っても構いません)
ご自分の畑の様子を皆さんに見て頂きたい仲間を探したいや又、趣味の会の様子例えば、ステンドグラスづくりや、演劇活動のお知らせ、音楽会のお知らせ、○○文庫は何日から開館します。等‥
そして何かお商売をされている方はその内容や宣伝、等
色んな使い方が出来ます。いろんな方にお知らせや相談・同じ趣味のコミュニケーションが出来ます。
このサイトは如何わしい人等防止の為に登録が必要です。
・登録はhttp://www.lovekiso.net/ 又は『木曽が好き』でアクセスして下さい。
・ 『新規登録』を押す
・ご自分のパソコンのメールアドレスを二箇所入力。(半角英数)
ご自分のお好きなキーワードを入力。(半角英数)
・ 数分後に入力したメールアドレス宛の登録用のメールが届きます。
内容を確認して『木曽が好きに参加する』の下にあるURLをクリックします。
・利用規約を読み、同意したら『同意して登録手続きへ』を押す。
その後登録に必要な情報を入力します。
・ニックネームやお店の名前等を登録
・年齢など、は全て正確でなくても構いませんと事でしたが・・・・
パスワード確認の入力
・秘密の質問と答えは(万が一パスワードを忘れた時このキーワードが本人確 認の鍵になります。『確認画面』を押す。
必要な項目を全て入力したら『登録』を『修正』の場合は修正し
再度『確認画面』の『登録』を押します。
・『ログインページ』へを押すと一番最初のページが表示されるので、先ほど登録したメールアドレス・パスワードを入力『ログイン』を押す。
あずき亭も説明を受けた夜遅くまで掛かって登録致しました。
あの旅で見知った方から思わぬ便りが届いたり、今ゆっくりですが、拡がっています。
日記のページがあり、お知らせを書き込んでもいいのですが、HPやブログを持っている方はアドレスを入力するとそれが掲載されるようになっています。
判らない事は管理人さんに質問すると親切に教えて下さいます。
ちなみにこの時説明して下さったのは、蕎麦処くるま屋さんの若旦那さんでした。
今朝の気温マイナス4度、室内5度。
昨日の雪も大分溶け始めたと思ったら、昨夜から又雪が降り始め10cm程積もっています。
今日は室内も寒く、温かいセーターにマフラーも首に巻きました。
昨日は末川の娘の家に孫達三人の子守りに出掛けました。
お昼には忙しくなるだろうと、前日よりお好み焼きを用意し、危ないから・・・とバスで出掛けました。
杜子春の昼食も用意して、慌てて柳又のバス停に向かい・・・、5分の待ち時間に小銭の確認。銀貨が2枚、あり大丈夫。
バスに乗り込み丁度乗り合わせて一寸顔見知りの方。
『久振りですね、お元気そうで・・・』
役場近くになり、もう一度小銭を確認した所。白い銀貨は100円玉では無くて、50円玉二枚に十円と一円でした。
両替って出来ます?5000円札を入れると返金されて来て、千円札だけしか両替していないようでして・・・・。
運転手さんは
『それなら、次に乗られた時に払って下さい』と言って下さいました。
通路を挟んで隣に座られた方はその様子に、ご自分のバックから、財布を探し、100円
『これ使って・・・・』
にこにこして手渡して下さいました。
『これは・・・いいんだよ!!!』
じゃあお借りします。
すみません、お名前は?
『Yです』
あぁぁ末川のYさん。
忘れな草やご主人の話になり、安心して馬橋でお別れしました。
開田へ来て、お財布を使わない日が多く、財布中身の確認もおろそか・・・・。
ゆったりなのか。。。ボケなのか。。。。。
でも寒い冬に人の温かさを感じながら・・・・。
昨日の雪は殆ど解けましたが、今朝も又淡雪がはらはらと降っています。
4cm程積もりました。
マイナス7度??気持ちは春に向かっている所為なのか、あんまり寒くは感じない、7度!!ともう一度温度計を見直しました。
『昨日の雪は柳又では4・5cmでしたが、西野ではその3倍はあったよ!』
杜子春。
『除雪車が少ない雪を掻き集める様に、ナメル様に、綺麗に除雪していたよ
ほんとに今年は赤字だよなあ・・・。
作業要員の費用や、整備費用が出て来ないだろうに・・・。』
先日ご一緒しましたバスの中で、「『信濃の国』の詩を覚えたいのですが、歌詞を知りたい・・・・。」を覚えていて下さり・・・・。
Sさんが早速封書で送って下さいました。
歌詞の部分だけ切り取り、パソコンの前に貼って、歌っています。
一番は何とか、音痴ですが歌える様になりました。
今朝お電話があり、東京から『かかり火』の編集長
『今○○旅館にいるのですが、ご主人は工房に居られます?』
工房の場所は判るのですが、この柳又(場所がよく)は判らない・・・・。
でも家の前まで来て下さいました。
フランスにお住まいの大島順子さんが今里帰り中なので、ご一緒しました。
杜子春と少し歓談の後、今日は御岳山がとても綺麗なので、いい所をご案内しました・・・。
次の予定もおありでしたが、旭丘からは御岳山・乗鞍・駒ケ岳三山が見えています。そして平次郎地蔵の話・・・
嶽見旅館から左へ曲がり西野原の広大な白菜畑、山下本家、長嶺峠を越えて、乗鞍の見える日和田の白樺林・・・・・・とって帰り、九蔵峠へ・・・、
そこここに御岳山がとても綺麗で、大島さんはパチリパチリと写真を撮って居られました。
この辺は以前は板屋根の家や板倉の話には興味深く・・・柳又の野菜の無人市の板屋根などは間近で、熱心に見て居られました。
少しの積りが引っ張り廻してしまい・・・三岳上松まで道案内させて貰い次の目的地妻籠へと急いで行かれました。
大島順子さんの書かれたご本を頂きました。
『フランスの田舎めぐり』田舎で過す癒しの旅のすすめ・・
フランスの隅々まで旅行し、典型的な田舎であるブルゴーニュ地方に住んでいる私は、平均的なフランス人以上にフランスの田舎を知っていると自負しています。その為に、フランスの農村を旅行する時の楽しさやテクニックを語ってみたかったのです。。。。
ゆっくり読ませて戴き何時か出掛けて見たいフランスへ!!!
機会がありましたら、皆さんも読んで見て下さい。
出版社はJTBパブリッシング定価1500円。
HP http://www.bourgognissimo.com/
ブログ http://plaza.rakuten.co.jp/bourgognissimo/
天候が怪しい所為か、割と空いていて、20分程待って申告を終えました。
久し振りに降った雪は往きは淡雪がフワリと降っていましたが、帰りには吹雪になり、木曽福島スキー場辺りではバスの窓を横殴りにし・・・・、新地蔵トンネルを抜け開田に入ると雪は少し穏やかになりました。
税務署から駅近くのサティで買い物を済ませ、八沢迄、冷たい風と少しの雪の中を歩き、五平餅と看板のある『むらちや』さんの表に備えられた長椅子に腰掛て、開田行きのバスを待ちました。
車が何台か行き違い・・前の八百屋さんでは配達の荷物の積み込み等する様子を眺めたりしながら・・・・、
身体を縮めていたせいでしょうか、お抹茶色のエプロンをした女性が通りの向こうから声を掛けてくださいました。
『バスはもう直ぐ来ますか?』
『寒いですネェ・・・』
こちらを気づかって、もしバスがなかなか来ないようなら・・・・何か言葉が出て来そうな、・・・・旅人に見えたのか、旅する人に対する心遣いが感じられて、その方の一挙手一投足を見るとは無しに見つめていました。
お向かいの八百屋さんの棚を並べているの?
前を通り過ぎ右手二三軒先の小さなスーパーに入られネギの把と何かを抱えて、斜め前のお店の中へと消えて行かれました。
あの飲食店の方なんだ・・・・。
やがてバスが来て、私は荷物を抱えて乗り込みました。
木曽福島でこんな温かな気持ちになった事に少しの驚きと、先日受講したおもてなしの講座の先生のお話を思い出していました。
観光客の方からの苦情には、福島のある店に入ったが
『本当に大名商売で、訊ねた商品に対してあっさりと、『ありません!!!』の一言で片ずけられて・・・・。』
そして三年前からこの講座を始めました、と・・・・
あの方だけでこの街がふわっと温かく感じてしまう。。。。。
二十年に一度の遷宮は平成25年に行われます。又木曽の桧が使われる事等皆さんと話ながら玉砂利を踏みしめお参りしました。
参道脇には以前の面影は赤福の本店のみ・・・・。
その周りに江戸末期から明治初期の風情をテーマに、伊勢路の代表的な建物を移築、再現した『おかげ横丁』の素適な町並み・・・・秋刀魚の一夜干し焼きやさざえ・牡蠣のいい香り・・・・、いろんなお店が並んでいます。
もめんやさんで本藍染めの布を何品か購入し、そして杜子春には焼酎を・・・あちらこちらの試食でお腹が一杯にならない様に・・・Sさんも今度は気を付けて・・・・・
『すし久』さんに集合。
川沿いの二階のお座敷は落ち着いた佇まいです。
お刺身や鰤・海老の焼き物・揚げ物・茶碗蒸し・等々・・そして伊勢名物てこね寿司・・・食べきれない位の夕食でした。
楽しい宴会の余興も飛び出し・・・・。
その後女性5人はタクシーに同乗して、温泉に出掛けました。
(入浴料金350円タオル・バスタオル・石鹸シャンプー付きで650円です)
海水が使われたいる湯は何時までもホカホカとして、ホテル迄5分程の帰り道は夕風に吹かれながら気持ちの好い散歩でした。
翌日5日は二見夫婦岩。
賓日館の見学。
明治天皇の母英照皇太后の宿泊に大正天皇や皇族各界要人の宿泊施設となっていましたが、明治22年に隣接する二見館の別館として使われていました。
この部屋は大阪での中学校時代の修学旅行に多分泊まった宿だと思われます。
全校生徒が3千人のマンモス校で一学年が約千人・・・・何台ものバスを連ねて、夫婦岩の前で撮った記念写真。
この大広間で、幼馴染のあの子と枕投げをした事等を思い返しました。
平成15年に二見町に寄贈され、丁度広間には沢山のお雛様が展示されていて、ご近所の方達が雛仕舞の手を止め丁寧に案内して下さいました
七里の渡し。
熱田の宮から桑名まで海路七里にあった事から七里の渡しと呼ばれています。今は昔の風情が感じられない位の改修工事が行われていて、手漕ぎ舟で、葦の生える川岸を想像していましたが、余りの立派さに江戸は遠くに在り・・・・の感でした
木曽を出て、三重県に入り気温が徐々に上がり、厚手のセーターを脱いで、タイツを脱ぎ、セーターがやがてティーシャツになり、・・・・そして帰り道、又一枚ずつ重ね着しながら木曽へと帰って来ました。
視察はハードなスケジュールな割に、休憩や見学はゆったりと時間を執って下さり、本当に有意義に又とっても楽しい旅になりました。
高速道路走行途中にバスの運転手さんが急ブレーキをかけられたのは、丁度前を走る乗用車同士の事故があり、とっさの判断で対処されたおんたけ交通の運転士さん、そしてガイドさんにも感謝です。 木曽の良さも又再確認する旅でした。
木曽町景観形成まちづくり連絡協議会の視察研修に参加させて頂きました。
東海道五十三次は江戸から数えて47番目の宿場町、三重県亀山市にある関宿。
昭和59年国の重要伝統的建造物保存地区に指定され、東西追分の間、1.8km25haは町並み600軒の内古い町屋等200軒が保存されています。
最も古い建物は18世紀中頃のものから明治の建物まで、平入の二階建が一般的ですが、目を引くのは二階前面を土壁で覆った塗りこめの物、大名行列をそつと眺めた縦格子の虫蘢窓(むしこまど)。
馬つなぎの環金具・出格子に簡易出店にも使用されたばったり等、京都や奈良井宿等と同じに間口で税金が決められた時代のいろんな工夫が見られました。
ずらりと並んだ町屋や脇本陣・・・関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か・・・・等の小気味良い観光案内の説明をしていただきました。
立派な大屋根は少し丸みを帯びた起り屋根(むくりやね)間口五間に奥行きは十間の大きな宿屋。長い町並みは見切れない位でした。
途中には、薬剤を扱かわれて居られる家や叩きにフイゴを備えた鍛冶屋さん等興味深い家もありましたが、ここは町並み保存が主で、観光地では無いですとの説明に収入には繋がらない保存の大変さを語って居られました。
朝は晴れ。
少し雲が流れているものの末川から又中沢辺りから九蔵峠からそして下の原・柳又上からとそこここから見える御岳山の素晴らしさ・・・・・
冠雪がキラキラとまばゆいばかりに光輝いていました。
が午後からはチラチラと雪が降り始めました。
今日は今年第二回目『猫の手』の集まりを末川センターで行いました。
12名の皆さん未だ全員のお名前を覚えていない・・・・。自己紹介を兼ねながら各自のご意見を出し合いました。
今後の『猫の手』の活動方向を考えて行く・・・のは課題に残し乍、
今年の行事を進めて行く事にしました。
今回は日義Tさんから木曽踊りの踊り方を詳しく手ほどき戴き、木曽節のテープに併せて皆さんで輪になって踊りました。
この分では、この踊りを持って遠征に行けそう・・・・・。と楽しみました。
今日のお昼はお蕎麦でも・・・・の積りでしたが、皆さん持ち寄りの五穀米や、お漬物・コーヒーゼリーにういろ等で楽しいお昼ご飯になりました。
そして御岳山の絶景ポイントを回り乍ら下の原のドイツトーヒの森を見学。
Nさんは着物姿にベルベットの半コート姿皮のブーツ履きで、雪の中を散歩等して・・・・・・。
次回4月の再会も楽しみにバスで又車で2時頃散会になりました。
先日の知多半島から大阪への旅の報告も中途になってしまいました。
大阪から又知多半島へ戻り、『季の野の台所』で味噌作りをさせて貰いました。
『麹を今から取りに出掛ける素適な所なので是非一緒に・・・・』
とMさんが誘って下さり、武豊町の中定商店へ出掛けました。
黒い瓦屋根の大きな家や蔵が、何棟も重なっています。
大きな倉庫はイベント会場にもなりそうで、その一角には昔使われていた高さ3M近くもある大きな樽に扉を付けて、開けると中はバーカウンターになっていました。又一つは、囲炉裏にそして少し小さめの樽はトイレにと変身していました。・・・ここの若旦那さんが作り替えを楽しまれて居られるとの事でした。
倉の中は自由に見て下さい。昔の酒造りの道具類が展示されていました。
この建物だけでも時代劇の撮影が出来そうでした。
照明器具は、ザルや曲木の通しに、昔書かれた和紙の手紙が貼られていました。
杜子春は倉庫の奥の方へも探索、桶の修理に使われたと見られる種々の材木類も保管されている事に感心して一日居ても飽きない位・・・・・。と建物横で一服しながら、マジマジと黒い屋根を見上げていました。
(何時かここで木工展をやりたいなぁあ・・・)